第1930号 卓話

水野俊行会員新会員卓話

水野俊行会員


皆さんこんばんは。2017年10月に入会しました水野俊行です。新会員ですので、自己紹介を中心に話させて頂きます。
昭和40年10月19日生まれ、52歳です。バツイチで独身で、現在は両親と一緒に生活しています。両親は80歳を過ぎていて、体の不自由なく生活をしています。私の同級生は、親の介護をしたり、親が入院していて看病をしていたり、子どもがいたり、早い方だと孫がいたりという話を聞きますが、私自身はまだそのようなことがなく、助かっております。
父は82歳で、40年程前に体重が90kgくらいあり、ダイエットを始めました。当時ブームだったジョギングをしているうちに現在ではそれがマラソンに至り、40年続けています。未だに年に4、5回フルマラソンを走っております。2年程前にホノルルマラソン連続30回出場ということでハワイで表彰を受けました。普通ですと外国人の招待選手がつけるような2ケタの30番のゼッケンを大会から頂いて走りました。それがホノルルの新聞に掲載されたり、翌日ラジオ番組でインタビューを受けたりしました。そんな父親のマラソンの付き添いで、母親も全国へ行き、応援しています。ただ、今は母親が足が悪くなって来てあまり外に出たがらなくなったので、私が時間がある時は車で送迎をしてちょっとした親孝行をしています。
父親がダイエットを始めたのと一緒に、当時小学生か中学生になったばかりの私も、毎朝5~10km走っておりまして、中学と高校では陸上をやっておりました。高校は県岐商で駅伝に出させて頂いておりましたが、全国大会には行けませんでした。県岐商は万年2位で全国大会には未だに行っておりませんので、なんとか行って欲しいなと思っております。
社会人になり走るのを辞めてから体重が増え、現在に至っております。健康のために体を動かすスポーツを趣味にしたいと思っておりますが、加納ロータリークラブにはゴルフが好きな方、上手い方が多いと聞き、私も今年になってゴルフをするようになりました。上手くなれるように練習してコースに行きたいと思っております。
私は大学を卒業してから岐阜で就職しました。今から30年以上前でしたので、岐阜の地場産業でもあるアパレル業がまだ景気が良い頃でした。私も岐阜で就職するならということで生地の卸しの仕事に就きました。しかしその頃から韓国や中国の物が入って来るようになり、日本のアパレルの大手会社が倒産しました。私が入った会社も事業部や子会社を閉めて縮小していき、私は退職しました。
その次には、丁度岐阜にオークション会場が出来だした頃だったので友人と一緒に個人の自動車販売業を始めました。それと同時に自動車の保険も扱うようになり、現在に至っています。岐阜に自動車の販売業が数多く、競争が大変でした。
その中で、携帯電話事業の話が来ました。1台売ると3万円貰えるということで、おいしい仕事だと思いながら販売していたら、その元請けの二次代理店から「うちで働かないか」と言われ、入社しました。岐阜営業所の所長として入社させて頂き、ドコモショップを岐阜県内に5店舗建てるのに3年程携わりました。現在でも岐阜県内(関、郡上、高山、可児)に私が立ち上げた店が4店舗あります。一時ドコモショップの店長をやらせて頂いた経験もあります。その事業も、フォーマからデジタルへと変わっていく時代に私は退職しました。
次は派遣業を始めました。製造業での派遣の仕事が物凄くあり、その中で人材派遣の管理者として5年程携わりました。今は派遣と言うと自宅やアパートから通う人が多いですが、当時は住み込みや寮に入り全国を放浪してるような作業員が多い時代でした。それで人の管理や、取り引き先への送迎をしていました。夜逃げしたり、休んだり、遊びに行って帰って来なかったりした場合に頭を下げに行ったり、新しい人を入れ替えたりと、大変なことを経験させて頂きました。そうしていろいろな方と知り合う中で、ずっと自動車の保険の代理店はやっていたのですけれど、今度は外資の保険会社の話があり、そこに入社しました。母体がアメリカ系の世界一大きなグループのところだったのですが、2008年のリーマンショックの時に切り売りしていって今では名前も変わってしまった会社に8年勤めました。当初10年いたら独立出来るという話を聞き、頑張って独立しようという気があったのですが、社内規定が根本から見直しが入り、退職後の独立の規定やコミッション体系など全てが変わりました。そこで、これでは代理店になった方が収入が良いということで退職し、現在お世話になっている有限会社セグロ企画に移りました。最初に携わった損保が現在25年、生保が15年となり、やっと保険屋らしくなったと自分では思っています。
今は少子高齢化で日本の人口が純減しています。ここ4年のデータだと2014年で25万人、2015年で27万人、2016年で28万人、2017年で30万人以上が純減しています。この4年間で100万人程減っているのです。岐阜市の人口の2倍以上です。保険業界だけでなくありとあらゆる業界が今大変な時代になってきていると思います。また、インターネットの普及で、Face to Faceの代理店がもう必要なくなってきています。全ての職業に対して今はAIやロボット化ということが言われてる中で人手は必要ないということになってきています。本当に大変な時代になってきたような気がします。そんな中で、私は去年このロータリークラブに入りました。ロータリーの奉仕や繋がりを勉強させて頂き、今後頑張っていきたいと思いますので、宜しくお願い致します。


紅林 良会員紅林 良会員


 昨年の10月に入会させて頂きました紅林 良と申します。自己紹介と加納ロータリークラブに入会して思ったことなどを話させて頂こうと思います。
私は全会員の中で下から数えて数番目に年齢が若く、昭和50年生まれで現在は42歳です。紅林という名が珍しいとよく言われるのですけれど、両親の出身は静岡で、父親はSLがまだ現役で走っている大江川沿いの小さな村の出身です。紅林と名乗ると、戦国大名に詳しい方は「静岡の出身だね」と分かって頂けるようです。昔少し活躍した方がいるようなことを聞いたことがあるのですけれど、それよりも多く言われるのは、袴田事件という戦後最大の冤罪事件を巻き起こした警官が紅林警部だったということです。悪い評判がどうしても前に出てしまうのですが、それによって名前を覚えて頂くことも一つの利益かと思っております。
岐南町で生まれ育って来たのですけれど、アルバイトをするか、そのアルバイトで得たお金で遊びに行くかというふうで、あまり真面目に学業をしていなかったので大学に行かず、高校時代に今の小牧の名古屋空港の中にある中日本飛行クラブに少しお世話になっていたので、その縁もあり川崎重工が管理する航空専門学校にそのまま進み何年か勉強していました。
結局それも数年間勉強した後に視力の問題などを抱えて、また違う人生でやっていこうというふうに切り替え、父親がやっていた商売の関係業者に就職することに決まりました。岐阜市内の金属加工の会社で6年程修行させて頂き、その頃出会ったのが今の妻で、27歳で結婚して今現在中学生の娘と息子と4人家族で暮らしています。
結婚して家業に戻ることになり、父親の仕事を手伝いながら何年か仕事をしているうちに、父親が60歳を迎えました。父親が独立したのが30歳の時で、私も同じ30歳を迎えた節目ということで、今から13年前に、父親と世代交代をし、今の会社の代表になりました。ちなみにその父親が修行させてもらったのが白木会員のみのや金属さんでした。今やっている家業はみのや金属さんが元々のルーツだと言っても過言ではないような業種で商売をしております。
業務内容は、筆頭推薦者でもあります篠田会員の生業であります、一般公共事業向けの土木製品を特注文に特化してやっております。具体的にはステンレス、アルミ、スチールの切断、溶接等をして、汎用品ではなく特注のオーダー製品の製造です。公園の手摺やダムの内部の階段といった、土木の発注工事ですので外部の製品を作ることがほとんどです。その他には、製造業の工場で新しい工作機械を購入したとかそういった場合に、その為の手摺とかタラップといったものを工場の維持業者として加工させてもらっているので、いわゆる町の鍛冶屋さんといったところの作業もさせて頂いております。
製造業の金属加工という業種は非常に好景気と言われていて、AIとは全く逆に、人がどんどん必要な状況です。工場で汗水垂らして重労働するよりも…と考える若い方が多く、給料を上げても有能な人材が集まりません。なかなかうちも人材を集めるのに苦労しているのですけれど、せっかくの好景気なのでこれに乗っかってどんどん成長したいと思っております。
この加納ロータリークラブに入会させて頂いてまだ数ヶ月ではありますが、先月末に都ホテルで教育セミナーを受けて、そこで女性会員が入会してどう思ったかといったスピーチをされたのを聞かせて頂いたのですが、私も同じようなイメージを抱いていたのでハッとしました。私は、入会させて頂くまでロータリークラブというのはいわゆる富裕層の社交の場というイメージがありました。ネガティブなイメージではなく、いろいろな業種の方が集まっていろいろな社長さんがお見えになる友好的な場なので、私のような若いものがそこに入れて頂けるということは、本来聞けるはずのない話も聞かせて頂けると思いますし、またこの加納ロータリークラブは私に歳の近い方も多くいらっしゃいます。少し上の先輩であれば、私が目の先の目標に出来るような存在の方も多いですし、入会させて頂いて凄く良かったと思っております。
最後に私はお酒、タバコは大好きなので比較的よく飲みに行きます。ギャンブルは好きですけれどもセンスがないのでやらない方がいいなと思っております。女性も普段は真面目にしていますけれども、お酒を飲めばだんだんそれに比例して対応出来るようになっていきます。加納ロータリークラブで言ってはいけないかもしれませんが、ゴルフはずっと避けて通って来ましたので、このまま避け続けて通れたらなぁと思っております。お酒の席とこういった社交の場での会話でお付き合い頂けたらと思っておりますので宜しくお願い致します。

第1840号 卓話

後藤政英会員新会員卓話
後藤政英会員

改めましてこんばんは。今回、この様な機会を与えて頂いたことを嬉しく思っております。口下手なのでその点はご了承下さい。
私共の会社は紙屋という名前が付いております。美濃和紙、機械抄き和紙などを商いとしているのと同時に掛け軸や絵画の販売と買取りをしています。現在、重きを置いているのは絵画の販売です。仕事柄、美術品に触れる機会が多く、本日はそういった話をしていきたいと思います。皆様の手元に質問形式で資料を配布しましたがそれに基づいて、お話させて頂きます。現在、東京では伊藤若冲展が開催されており、入場するのにも3時間待ちだそうで大変盛況です。それにも劣らない美術家、芸術家の方が岐阜から出ています。岐阜県出身の方を紹介します。文化勲章を受章されている方は、川合玉堂さんや前田青邨さん、そして守屋多々志さんです。もう一人、文化勲章の内示があったのに断った方が熊谷守一さんです。川合玉堂さんは伊奈葉神社の近くに12歳頃まで住んでいました。前田青邨さんは中津川出身です。一昨年に県美術館で『出を待つ』という作品を所蔵されたというニュースをやっていましたが日本の院展を引っ張って見えた方です。守屋多々志さんも大垣出身の方で、大垣に美術館があります。昭和皇后である香淳皇后様の絵の先生だったのは川合玉堂さんや前田青邨さんです。香淳皇后様は大変絵がお上手で、個展を出された事があります。その時の作品が前田青邨さんが手を加えたのではないかと言われる位、魚の絵が大変上手だったそうです。その後、手記でも手を加える必要のない位上手だったと言ってみえます。大橋翠石さんは大垣出身で、パリ万博で優勝金牌を受賞されました。〈虎の翠石〉と言われるほど虎の絵が有名でございます。江戸時代までは虎は猫顔のねこどらという漫画の様な絵しか描けませんでした。それは、実物を見た事がなかったからです。当時、大垣に住んでいて移動動物園かサーカスで虎を初めて見て感動し、虎を描く様になったそうです。他の動物も描いていますが、虎が人気です。大垣まつりで天気が良いときには大橋翠石さんの絵が見られます。次に土屋禮一さんはお父さんが日本画家の土屋輝雄さんで、現在は日展の副理事長をしています。県美術館に親子揃って展示されています。次に初代岐阜市長を父に持つ方は、さきほど紹介した熊谷守一さんです。熊谷守一さんは皆さんも絵を見られたことがあるかと思いますが、簡略化された原色の絵が特長です。一昨年、県美術館で作品展がありました。書道も上手く、人気もありました。当時、表札に熊谷守一と書いて玄関に掛けておくと、一週間ほどで無くなってしまう。心ないファンの方が持っていったほど字が上手く、書も売れたそうです。表札がなくなっても、また書き直すほどおおらかに構えていました。
次に師弟関係のある方は、前田青邨さんと守屋多々志さん、加藤栄三さんと長縄士郎さん、加藤東一さんと土屋禮一さんです。前田青邨さんは大学が嫌いだったそうで守屋多々志さんが「大学に行きたい」と言ったら「行かなくてもいい」と言われましたが、どうしても行きたいので東京芸大に通いました。その後、前田青邨さんはお許しになったそうです。加藤栄三さんと長縄士郎さんでは、東山魁夷さんと加藤栄三さんが人気を二分して見えた方です。県美術館にも所蔵されていますし、色の魔術師と言われる様な絵のお上手な方でした。長縄士郎さんの絵も岐阜の公共施設にたくさん寄贈されています。舞妓さんの絵を見た事があるかと思いますが、岐阜の名誉市民でもあります。加藤東一さんと土屋禮一さんも師弟関係がございます。東一さんが禮一さんに最初の仕事の手配をされたそうです。
岐阜の商家の支援で京都・東京に勉強に行かれた方はさきほどの川合玉堂さんです。当時、12歳で絵が上手だと言う事で周りの皆さんがスポンサーとなって勉強に行かれました。この方も字がお上手でしたので、支援者の方へのお礼の手紙などがたくさん残っています。県美術館でも資料として展示されています。次にイタリアに留学されたのは守屋多々志さんです。語学が堪能な方で当時、旅行者も少ない時代でしたが、船で行かれ、宿なども自分で手配されたそうです。ホテルの予約ができず、民家に泊めてもらった際、小さなベットと食事を提供され大変有難いと思っていたら、翌朝にホテル並の代金を請求されたと手記にありました。土屋禮一さんは瑞龍寺に襖絵を書いています。瑞龍寺は寺町にありますが、一般公開はされておらず3月の2週目に龍の絵を見る事ができます。これについても一度、見て頂けたらと思います。この様に岐阜には活躍された方が多く見えますし、現在も芸術文化で活躍してみえる岐阜県美術館の館長になられた日比野克彦さん、他には長谷川喜久さんなどもいます。仕事柄、岐阜の地域の方々が芸術を愛していたり、育てるという土壌がある事も知り、こういった方達の活動や作品を多くの方に広めていきたいと思っております。是非、皆さんも岐阜の素晴らしい芸術・文化を愛するという事を周りの方にお話して頂けたらと思っております。以上で、卓話を終わらせて頂きます。有難うございました。


 

加藤雅彦会員新会員卓話
加藤雅彦会員


皆様、こんばんは。新入会員卓話として何を話したらいいかと思ったなかで、簡単な自己紹介と会社の概要についてお話をさせて頂きます。よろしくお願いします。昭和47年9月23日に生まれたのですが、ロータリーの中で一番若いと言うことで早く私より若い新入会員が入って来ないかなと思っていますので、皆さん勧誘の方よろしくお願いします。私は岐南町のみやまちで生まれ、岐南中学校、各務原高校の理数科、専修大学の経営学部を卒業しました。そのまま東京で就職し、29歳までおりました。親との約束で30歳までには帰ってこいとの事で、そこから加藤バーナーに入社し、勤めています。2年前に親が亡くなり、社長に就任しました。趣味としては体を動かすことが好きなので、野球やゴルフをしたりします。平日は難しいですが、土日はゴルフなど誘って頂けたら幸いです。お酒も飲めますので、会が終わってから誘って頂けたら嬉しく思います。続きまして、会社の説明をさせて頂きます。岐南町のみやまちで昭和21年1月に創業しました。設立が昭和38年9月で、今年で創業70周年となります。創業70周年に合わせまして、岐南町の徳田に土地が見つかったので、新しく新工場を建てて、増築したいと思っております。資本金は1000万で売上金額が去年は15億円、従業員の数が60名です。営業品目は、オイルバーナーとガスバーナー、それらに使う制御装置の製造、販売をしています。沿革として、昭和21年に初代の社長である私の祖父が加藤彦一が機械加工・修理を行う会社として「加藤鉄工所」を岐阜市の祈年町で設立しました。昭和26年に何か製品を作りたいと思っていた所、押麦乾燥機の熱源を石炭から重油に転換を目的としたオイルバーナーの開発をして販売をしました。社名を「加藤鉄工バーナー」に改名し、その後に組織を株式会社に変更し、「株式会社加藤鉄工バーナー製作所」を設立しました。昭和51年に東邦ガス㈱と協力し、ガスバーナーも開発しました。現在、オイルバーナーとガスバーナーをメイン業務にしています。昭和52年に海外にも販売をしたらどうかという事で台湾・韓国・タイなど東南アジアへ輸出を開始しました。本巣市にあるレシップという会社に代理店になって頂き、バーナーの販売をして頂いています。平成12年に品質管理の国際規格のISO9001を認証取得して、品質向上をしています。組織としては、営業部、技術部、製造部、経理部があり、それぞれの部署から1名選任して品質保証部ということで品質管理を務めております。バーナーの用途としては、温めるということで温水ボイラー、蒸気ボイラー、洗車機など水を温めるのに使うバーナーがあります。洗浄液ということで、メッキや塗装の前に使う液の所を加熱して、均一に保つ様に使われるバーナーもありますし、暖房機やビニールハウス、宴席の暖房で温めるという用途で使われているバーナーもあります。溶かすということで、金属熔解、アルミなどを熔解する所でも使われています。そして、蒸すということで製茶用のボイラーや餅米、炊飯などの食品を蒸す用途でも使われております。次に、お茶、しいたけ、米、い草、のり、こんぶ、魚、わかめなどの農水産物の乾燥でも使われています。工場の設備で塗装乾燥や、陶磁器などの成形品、調製にも使われております。燃やすということで焼却炉も使われております。実際に見てもらわないと分からないかと思いますが、色んなオイルバーナーやガスバーナーの参考例として挙げさせて頂きました。オイルバーナーは1時間当たり400ℓを燃やすバーナー、ガスバーナーは1時間当たり150万キロを燃やすバーナーを汎用品として取り揃えております。お客様の要求に対応した特殊仕様なども取り扱っています。汎用品6割ほどで、OEMの商品が4割です。次に品質保証では、品質方針を『お客様に満足される商品を提供する』としています。お客様の要望は出来ることなら全て当社でやろうと、お客様の製品に対する満足向上度を目標に頑張っております。取り組み姿勢としては、出荷検査は全数検査をしています。また、全部受注生産をしています。汎用品でもオイルバーナーやガスバーナーの取り出し口がそれぞれ違いますので、お客さんの要望があってから当社で製造しています。トレーサビリティとして製品の製造番号から、製品の型式・仕様や使用している部品の種類、組立工程及び出荷試験の検査成績書を検索することができ、出荷後のアフター対策もできます。アフター対策もメンテナンスや修理、取り付けのサービスなど力を入れています。以上で簡単ではございますが、自己紹介と会社の概要の卓話でした。ご静聴有難うございました。